昭和49年01月26日 朝の御理解
御神訓 一、「陰とひなたの心を持つなよ。」
かげと陽向のない心と。あの人は中々、かげ陽向なしに良く働くと申しますね。ですから陰ひなたの心というのは、そういう行動にもかげ陽向のない在り方の人の事を言うのだと思いますが。かげ陽向のないと言う事は、真面目と言う事だと思うですね、真面目な人だと。またかげ陽向のない心というのは、真面目な心だと言う事になります。真面目な人が、人の信用を得ます。あの人はかげ陽向がない。
本当に人の信用を得る事が出来ますように、かげ陽向のない心と言う事は、神様の御信用を、得るという事になります。かげ陽向のない働きをする人は、あの人は真面目な人だと言うて、人の信用がつきますように。陰ひなたのない心を持つと言う事は、是は少し違うようですね。かげ陽向のない働きをする人。かげ陽向のない心というのは違う。かげ陽向のない心と、形の上においてかげ陽向のない働きをする人を、人が信用するように。かげ陽向のない心を持つと言う事は。
神様の御信用を得る事が出来ると言う事になるんですね。私共が本気で、間の幸せというものを、本気で考えると言う事。私は信心とはそういうものを、愈々深く考えさせるものだと思うですね。どの教えを頂きましても、結局心を中心に説いてあります。真面目な心を持っておる人が、真面目な働きをする。真面目な働きをしておる人が、真面目な心を持っておるとは限らんのです。その辺の所が信心で所謂真面目な心。
かげ陽向のない心と。私は特に今日はこのかげ陽向の心を持つなと言う所に、それこそ、心引かれておる訳でございますけれども。現在持っておる私共のその心というものがです、果たしてそれで神様の御信用が得られるだろうか。今私の心の状態で人間本当に幸せになれるだろうか。幸せを願わない者はありません。幸せになりたいけれども本当に人間の幸せと言う事をです。
本気で追求する本気で求めて参りましたら、真の信心に辿り着かなければならないように出来ておると思うです。ただ神様に御願いをしておかげを頂く。そのおかげを受けたと言う事が幸せに果たして、どれほど繋がるのだろうか。自分の思いが叶うたと言う事が、どれほど幸せを持続する、持ち続ける事が出来るだろうかと。喉元通れば熱さを忘れる。これは人の常である。
決してそれで人間が幸せになると言う事ではない。場合によると頂いたおかげが、却って仇になると言う様な事すらがある。それをまた言い方を変えますと、人間が健康で一生懸命に働いて、人に迷惑を掛けないように。一生懸命の言うならかげ陽向のない働きをして行くと。それだけで得られるところの健康であったり、また得られる所の財産であったりと言う様な物が、もし得られたからと言うてです。果たしてこれで人間が幸せだとは言い得ない。教祖の又の御教えにもありますように。
あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても。次々難儀な事が起こって来ると、世間ではどうした事であろうかと言う様な事があろうがと。神に信心しておかげを受けるのは別物じゃと。だからここん所神に信心して、おかげを受けると言う事はです。一つの願い二つの願い事が叶うたという意味でのおかげではなくてです。信心しておかげを受けると言う事は。
信心して心を中心の生き方をすると言う事だと、私は思うです。人間の幸福。私共が幸福になりたい、幸せになりたい。願わん者はありません。所が私共はあまりにも、昨日の、文男先生の話の言葉を借りるとです。あまりにも読みが浅い。ここに百万のお金があれば、もう幸せになるごと思うとる。ここに億万の金を持っとりゃ幸せになるように思うておる。大間違いです読みが浅い。ここに本当に健康さえ頂きゃ私は幸せと。不健康な人は、そう思うかも知れません。
けれども健康が与えられる。はぁ健康と言う事は有り難いと言うておっても、それは段々薄らいで来るもの。健康である事は当たり前のように、金を持っておる事は当たり前のように。そこに幸福を感じれると言う所までは行かない。そこで金の足りない時に、または不健康である時に言うならば、今まで感じておった難儀と感じておった難儀の中に、神様の心を深く深く読ませて頂いて、その神様の思いに添い奉ろうとする。そこに感じるものが心である。
自分が今願っておる事が、お金のお繰り合わせを願っておる。自分が今願っておる事が、健康の事を願っておる。幸せになりたい幸福になりたいから、金のお繰り合わせも、健康のおかげも願っておるのである。そこで果たしてそれを頂いた時に、私共が幸福に本当に繋がる事が出来るかと言う事を、私はもう一つ深く考えてみなければいけないと思う。そこから自分の心を深く見つめると言う事にもなって参りましょう。
深く自分が分かって来ると、神様の心を深く読むと言う事は、結局私は自分自身を深く知る事だと思うです。そこから私は今感じておる所の難儀というものが、難儀と感じんで済む。金光教の高橋か、高橋の金光教かと言われるほどしに、有名な先生がおられました。先年亡くなられましたけれども、高橋正雄という先生です。早稲田大学の出ですけれども、早稲田大学の卒業の中に、これほどしの冴えた頭を持った人は、後にも先にも出るまいと言われるくらいに、頭の良いお方であったそうです。
ですから金光教の、言うならば頭脳と言われた方です。先生がお若い時から、真剣に信心を求められた。様々なお話が沢山、この先生の上にあります。言うなら「見ること見ること自分を見ること」というあの言葉は、高橋正雄先生のお言葉であります。極みに極められて行き着かれた所が、そこであった。自分を深く深く見る以外にはないんだと。そこから、高橋正雄先生の、あの縄帯時代と言われた時代があった訳です。自分を本当に分かった時に、とても食べる資格なんかないと感じられた。
自分を本当に分かった時にです、着る資格なんかないと自分で思われた。それでいて、こうしてお生かしのおかげを頂いておる事の有り難さというものがです。何かの形に現さなければおられないという事になって来た。そう言う所から私は生まれて来るのが、かげと日向のない心ではないかという風に思います。私共が自分ではかげではない日向ではないと思うておるけれどもです。それに我があり情がありという間は、本当の意味においての陰日向のない心と言う様な物は、実は分からんのではなかろうかと思う。
自分よがりという事がある。自分は良いと思うておっても、人はそれを良いと言わないとするならね。また自分自身も自分が分かって来る、自分を深めて来る時に、それが間違いである事に気付くでしょう。私もやはりそうだったように思うです。真の信心真の信心と言うて。お話もずいぶん聞かせて頂いた、おかげも随分頂いた。随分と言うが、大変なおかげも頂いて来た。
けれども、自分と言うものが分からない間のおかげというものは、実にそれこそ陰のようなものである。自分というものが分からずに頂いたおかげというものは、それこそ水の泡のようなものだという風に気付いて来た。おかげお願いをして頂くおかげというもの、働いて儲けたもの。また健康であると言う事がです。様々な難儀に直面して、裸で一貫の本当の生活にならなければ出来ない事になって来た時にです。
初めて自分が分かり出した。そこからする事成す事、言う事はです今から考えて見ると、ああいう生き方こそが、かげ陽向のない心であったなと今にして思う。だから神様が目をつけて下さったのではなかうかとこう思う。おかげを頂く御用を頂く、御用さえ頂きゃ確かにおかげを頂いた。教えなんかというものは守ってはいない。例えば商売人私が商売人ですから、例えば十銭の物は八銭で売れと、教えて下さってあるのに、十銭の物は十一銭で売ったり、十二銭で売ったりしておる。
その代わりに自分の身にはつけない。余分に儲かったつだけはお供えすると。それで自分の方の腹は、一つも痛まない訳なんだ。しかしそれでも矢張りおかげを下さったです。神様は不思議なお方です。ああ言う所に矢張り神も立ち行きとか、氏子も立ち行く所謂神様ご自身が立ち行きなさらねばならんから、そういう所もあるようですね。神様自身が立ち行きなさらにゃならんから。してる事は間違っておってもです。お供えをすると言う事によって、神様の働きがそこにある。
神様は人を求め給うと言うて、是を先生が有名な言葉があります。神人を求め給う。私は神金を求め給うと言うても良いと思うですね。ですからどんどんお供えすりゃ、どんどんおかげ頂くという理が生まれて来るんですよ。だから私共は場合によっちゃ、そういう理を利用すると言うか。そういう理に便乗するような、おかげも頂かなければならん事もあります。けれどもギリギリの所は、それはかげと日向のある心であって、それは真ではなくて、ただ我情我欲の為の、それだと言う事になるのです。
だから根本の所は、私は愈々、自分自身が分かると言う事。私も高橋正雄先生じゃないけれども、それに私は引かれてからという訳じゃないけども、ギリギリ自分ていうものが分かったんです。本当に親孝行したいの一念でした。商売でいっちょウンと儲け出してから、本当に親だけには安心させたいというもんでした。それが敗戦終戦と言う事になって、それが脆くも崩れてしもうた。
この両親に今もし死なれでもしたらば、どうなるだろうか。私の念願というものは、とにかく両親が生きとる間に、両親が喜ぶようなおかげを頂きたいと言うので、まだ深く分からなかった。とにかく一生懸命商売をして、うんと儲け出させてもろうて、良い家に住まわせたり、良い食べ物を与えたり、良い着物を着せたりすると言う様な、浅い考えであった。その親に腹一杯お粥さんですら、すすらせる事の出来ない事に直面した時です。自分の無力さ加減、自分の考えの間違い、浅さに辟易とするものを感じた。
そこに親に腹いっぱい食べさせる事も出来ん者が、どうして私自身が腹いっぱい食べられる事が出来るか。両親に暑い寒い思いをさせんで済むほどしのおかげを頂きたい、それを頂かせきらんでおいて、自分が楽々とすると言う事が、出来て良かろう筈がないという所から、夏もなからなければ、冬もないという、夏服一着の生活が始ったり。何年間一椀のお粥さんで過ごさせてもらう。食べる資格着る資格のない自分というものが分かって来た。高橋正雄先生はそういう時にただ、町のドブざらいのような。
人のしない様な便所の掃除やらをなさったと言う事ですね。私共はそう言う事までは出けなかったけれどもです。とにかく神様の御用、教会の御用と言う様な事に打ち込ませて頂いた。無条件に打ち込んだ。食べる資格も着る資格も、どれだけ私が働いて働いてその当時。働いて目の前にどれだけ沢山の食べ物を持って来て下さっても、私はそれは頂かんのですから。食べる楽しみと言う様なもんじゃなかった訳です私の働きは。私は結局一椀のお粥があれば良かったのでありこの夏服一枚があれば良かったのですから。
そこから起きて来た行動というものがです、私はかげ陽向のない心から生まれた、かげと日向のない働きであったように思うです。その手前の所でかげ陽向がない。あの人は陰ひなたのない働きをすると言う事によって、人の信用がつくように、読みの深い意味においてのかげ陽向のない心というものが出来て来る時にです。そのない心を持つなよと仰る、その心に神様が目を付けなさらんはずがない。神様の御信用が増して行かないはずがない。それを御神徳だという風に私は思うのです。
そこの所から、生まれて来る所の財であり、健康であって初めて私は、人間の幸福というものを感じます。その幸福の基本というものをです私共が、おぼろげながらでも分からせて頂く事になるとです。最近若先生が言っておりますように今年は心。教祖様からお書き下げに頂いておる、あれを自分の部屋に置きたい。表装が出来て来たらあれを自分に頂きたい。そして今年はこれで行きたい。もう心々と心中心で行きたい。そこから最近人に話をすると言った様な事。
心意外の事を言うておる事は、自分でかげと日向の事だと感じ出して来た。だからとてもそれこそ、もの言えば唇淋し秋の風という、そういう実感がです、ひたひたと若先生の心の中に、淋しさが感じられて来るようになって来た。これで人が助かるはずはないと分かってきた。そこで自分の本当の助かりと言う事は、自分の本当の幸福と言う事だと思うんです。自分の本当の助かりというものが、心にあるんだと気付いて来た。そこからです、私は、幸福の原点と申しましょうか。
そこん所が分かり出す所から、私は信心というものは、本当の値打ちというものを発揮して来るんだと思います。そこでその心が和賀心を目指すと言う事にならせて頂いたら、どう言う事になるだろう。もう手につけ足につけ、おかげを頂く事ばっかりになって来るんです。先日から熊本布教の事について、高橋さんの運転で、総代さんを代表して、久富さんが行って下さった。そしてあちらの隣接教会になる教会を回らせて頂いて、あまりにも簡単に、それが出来るようにありましたから。
行ったらすぐ判子がもらえるものと思うて、そのお礼の思いも込めて、御初穂とかお供えなんかも準備して参りました。私が行く事になっておりましたから、それは何処も大変に丁重に扱うて頂きました一同皆を。けれども言葉は柔らかですけれども、例えば一つの教会に参りましたら、どんなに考えても、近過ぎますとこう言われる。だから一里向こうの方へ行ってさえもらや何時でも喜んで、判を押しますからと言われるのを聞かせてもらって、ほんにそうだなと私も思うんです。
半道しか離れてない。私は本当に先生が言われるように、成程そんならもう一つ丁度一里ぐらい向こうの所へ、家を探させてもろうて、また改めてお願いに参りますから、そん時はどうぞよろしく。はぁそん時には喜んで、判を押させてもらいますと言う事であった。それからまた次の教会に行った。そして私は次の二軒の、後先の教会の判を頂かなければ出来んのですから。行かんでも良かったんですけども、折角来たから御挨拶に行って、あちらの教会でこう仰いますから。
私の方が丁度こちらからも一里、こちらからも一里と言う様な所に家を探し得たら、その時には又改めてお願いに上がりますから、よろしく御願いしますと言うて申し上げた。所がそこの先生は、全然反対のことを言われるんです。そう言う事は問題じゃありませんよと。例え隣同士に出来ても、金光教の規則の中には、たった半道しか離れとらんから出来んと言う様な事はありませんよと。
隣同士に出来ても、いけんと言う事はないのですから。何遍でも何遍でも、向こうに通いなさって、そしてどうでも一つ御願いをしなさいませと。その元になるものはです、問題は和と言う事なんです。と向こうの先生が言われる訳なんです。こと前教会同士仲良うならなきゃいけないと言う事なんです。あちらの先生とこちらの先生は、全然反対のことを言われる訳です。ですから今度は丁度一里離れた所に、合楽の出社が出来たと致しますとね。方一方の人は一里離れとる所だから。
判を押して下さったと致しましてもです。どっこい今度は片一方の方の先生はです。距離はないち言うとりなさるとですけん。仲良うならなきゃ判を押さんと仰っとるとです。これの方がもっともっと難しい事だと。こちらは仲良いと思うておっても、向こうが仲良うないと言われたら、それぎりの事です。まぁ惨う言わっしゃるなと、私は思いましたよ両方ながら。話し合うてあるとじゃないじゃろうかと思うた。
全然言われる事が全然反対の事で、しかもそんな風で、本当に成程、成程と思う様な表現ですよね、言葉としては。けれどもこげん難しい事はないです。こちらは仲良うなっとっても、向こうの方が仲良うなっとらんち言うなら、判な押さんちゅう事じゃから。私は、そういう時にです、私の心の中に、これはおかげだなと思うたです。山田先生の所に、それからまた参りまして、本当にそれこそ山の中の藪の中。ぐるりぐるっと竹屋根です。まるきりここはあんた、雀の宿のごたるのち言うような所です。
もう隣近所ち言うたっちゃちょっとなかち言うごたる風で。こっちは山こちらはずっと広々とした田んぼばっかしかない。田んぼちいうが畑ばかりしかない。丁度私どんが行くち言うので、あちら四五人の信者も一緒に来てから色々と御用しよりました。本当に狭い六畳と八畳の、たった二間しかない御神前を、六畳の方へ使って八畳の方がお広前になって。行ってからははぁここじゃ成程、人が助からんなぁという感じです。とにかく信心が好きで好きでたまらんという人の御広前だなという感じなんです。
私は神様にその事をお願いさせて貰いました。そしたらね御神前は、勿論御神灯が点いてましたけども私の御神願には、神様の方が真っ暗でした。そして御霊様の方から、ほの青白い光が、御広前をパーッと差しておると言う所を頂きました。山田先生ていうのは、ポカーッと信心をする人で合楽から、御本部に修行には行きましたけれども、合楽の信心を頂こうとは、しないと言うて良いくらいに、自分の我流で行く人なんです。その後なかなかとにかく、霊神様の方に参りましたら。
自分が一番初めにおかげ頂いた所の、初代の先生のお写真がこうやって掲げてありました。だからそれはとても有り難い事ですから、けれどもですね本当の合楽流の信心を頂かなければ、神様の御比礼と言った様な御比礼にはならないと言う事なんです。本当に合楽的信心を身につけなければ、合楽の出社としては、駄目だと言う事です。けれども自分がヤーヤー言うて、ああいう御広前自分で作って、自分で持っておりますから。
是は親教会長として、私が行ってそういう手間を取らなければ出来ない事になりましたから、行きましたけれども。はぁこちらの教会へ行けば、今言うようにこちらの黒木教会に行けば、こう言われると言う事は、これは山田先生とてもバタバタ急ぐ事っじゃなかよと、私が申しました。家にも八年もその上も修行した修行生は、幾らもおるのにです。まだほんなここで本当の修行もしない人が、ここの第一の出社として第一の枝として、出るという事は、どげん考えたっちゃ可笑しいですやっぱり。
けれども先方がそういうお膳立てをしてから、そう言う事をしなければならんようになっとるから、行っただけの事ですけれども、是はおいそれと許可になるはずはない。私はそう思うた。山田先生が本当に合楽の信心を頂いた時にです。霊神様の言うならばその先生から信心を頂かれた方ですから。その先生の信心と同時に合楽的信心が、神様の前に明々とお光が灯った時です、初めて熊本の地に愈々合楽の御比礼が輝く時だなと。だからそういう風に分からせて貰いますから。
私の心の中にはどうした根性の悪い、口には優しゅう言うとってから、どうしてこんな意地の悪い事をとてもとても、熊本ちゅう所は難しい所と言う事を、昔から聞いちゃおったが、これは大変な事だなとも思いましたけれども。これは大変なおかげを頂く元だなの方が強かったです。ですから私の場合は、どう言う事があってもですよ。叩かれても蹴られてもです。その時点で手につけ足につけ、そっからおかげにしかして行かないという心があるです。相手を憎むとかもう工作してからでもとか。
そう言う様なものが、さらさらないです。ですから今の所では、ちょっと困った事の様ですけども、これが必ずより素晴らしいおかげの元になるんだと思わせて頂いておるから有り難い。そういう心を頂かせて頂く事に、私共は精進してる訳です。どんな事があってもです。自分の心は和賀心の、言うなら喜びの心に来る。どちらへ回してもどちらへ転がしても、喜びだけしか出て来ない。喜びの答えしか出て来ないという心です。そういう心から成されていく時に。
例えば片一方の先生が言われるように、向こうは一里離れなきゃ判を押さんち言いよんなさるばってん、そげな事は問題じゃないですから。何遍でん行って御無理でも言うてお願いして来なさいとこう言われる。私はそげな無理を言うてから、向こうが本当に半道しか離れとらん所に、教会が出来ると思うてござる所へ、私はそんな無理なんか言うて行こうとは思わない。そういう心が私の心の中には微塵もない。
本当に周囲の教会からでも、祝福されてから合楽の御広前、出社が出来ると言う事を願うのであって。その為には私共がどう言う事柄であっても、それを喜びで受けれる又どちらへ転がしても喜びしか出て来ないという心の状態。コロコロと変わるその心がコロコロと有り難いという答えだけしか出て来んという稽古に重点を置き焦点を置いたのは、私自身が分かってきた。言うならば今までの読みが深くなってきた。難儀なおかげで自分というものを、段々知る事が出けて来た分かって来た。
そこからです言うならば一椀のお粥さんでもです。一枚の夏服でもです、私には勿体ない物として頂けて来るようになって来た。そこから成されるもの。そういう資格もない私が、それでもやはり、一椀のお粥を頂いておる。そういう資格もない私が、この洋服一着だけは許されて来ておるという事にです、有り難いものを感じさせてもらう。その有り難いものが、御用になって現れた。
そういう心がかげと日向がない心であり、そういう形に現れたものこそが、かげと日向のない、神様が御覧になって、かげと日向のない心とはそういう心だ。人間同士の場合であってもです、あの人はかげ陽向がないと言えば人の信用がつく。人の信用がついたから、人が幸せになるかと言うと、決して人の信用がついただけでは人間は幸せにはなれない。あの人は仏様のような人、神様のような人じゃと言うても。
次々難儀が起こって来るという事実がある。一生をあの人ばかりは清貧に甘んじられたと言うけれども、幸せではない。神様が認めて下さる所の、陰と日向のない心でなからなければならない。神様が信用して下さる。その神の信用を御神徳と言う。その御神徳が身について来る時にです、食べささねばおかん、着ささなければおかん。良い物をより良い物を与えねば止まんという働きの中に。
人間があってこそ、人間の幸福というものが、本当の幸福というものは言い得るんだという事をです、私は今日聞いて頂いた。幸福と言う事を本気で考えなければいけません。私共の幸福と言うのは、今の難儀の中から、ちょっと脱皮すれば、幸福になるように思うとるけれども、決してそうじゃない。二つ、三つが成就したからと言うて、人間幸福になるもんじゃない。
そんなら幸福の原点、大元と言うのは、どこにあるか。貴方の心なんだと言う事。そこで心を本気で見極める事になり、自分が分かる事になり。そこから不平不足のない生活が生まれて来て、そういう心におかげがある、和賀心におかげがあると仰る、そのおかげの中に浸った時に、初めて人間は本当の幸福という事が言えるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。